「いつもの電車」の最期の時に。
最後の朝を終え、お昼過ぎの千田車庫。
信じたくなかったけれど、残念ながらキミは旅立ちの準備をしていたね。
「電車が通ります、ご注意ください」
これほどこの放送が聞きたくない日が来るなんて。
このブログの最初を飾った写真。実はこの「いつもの電車」だったりします。
路面電車の駆け出しオタクをしていたあの頃から、心のどこかにキミが居た。
そんな電車でしたね。好きだったな。
自分が広島の電車に魅了されて早十余年。
執拗に撮り続けていると、撮りたい写真はほとんど撮っちゃってたりします。
そんななか、いつもの電車の本線走行はいつか撮りたい写真リストに入っていました。
ひょんな配置換えとか、はたまた貸切電車とか、そういう機会に巡り合えればいいなとずっとずっと思っていたけれど、結局そんな都合のいいことはなくて。
キミとの最後の思い出として、この夢は叶うことに。
ひと電停ひと信号、過ぎていく度にさよならが近づいてくる。
ほんとはもっと違う形で撮りたかったな...。
そんな時間も束の間。「いつもの電車」は西広島へ滑り込む。
宮島線直通色を纏ったキミの最後は、やっぱり宮島線が一番似合ってるね。
運よく後続の電車を待っての発車になりそうな予感。これには感謝でいっぱい。
踏切と高らかに響くキミの足音が、誰もいないホームに乱反射する。
横を過ぎ去るときの風の中に、何度も香った制輪子の削れる匂いと、キミに夢中になった日々の思い出が詰まっていたような気が気がして。
あぁ、ついにお別れなんだな、と。
昔は電車の解体作業があると聞きつければ、時間を作って見に行ったものでした。
最後までちゃんと見届けて、さよならだって思ってたから。
でもなんか、本当に好きだったこの電車の最期を見届けるのは気が向かなくて。
「いつもの電車」の最後の写真はこの一枚に。
自分の目でさよならを見ていないから、まだ世界のどこかで走り続けている。
そんな気が、するんですよね。
「いつもの電車」の最後の朝を。
ふと、大昔に小っ恥ずかしい文章を書いたなと思い出して、厨二病全開(現在進行形ですが)だった頃のブログ記事を漁るなどしていました。
もうこの記事を書いて5年も経つことに老いを感じざるを得ないですね。
午前6時50分。
ピンク色がアクセントのいつもの電車は、変わらない姿で車庫を後に。
気づけば新しい顔が増えて、そして仲間も数を減らして、出番も減って。
それでもいつもと変わらない、尾を引くブレーキ緩解音を響かせ、あけぼのの街へと。
冬の朝ならではのこれでもかという朝日を浴びて、大きな車体を輝かせる。
朝焼けの色、この電車にはぴったりだった。
そして、いつもの時間。
鳴り響く発車メロディ、相槌を打つように聞こえてくるドアブザーの音。
誇らしく緑色の幕を掲示して、何回も辿った比治山路へ。
お世辞にも広いとは言えない宇品通りを、大きな車体を器用にくねらせて駆けていく。
直通色仲間だった3004号との邂逅も、もう随分と昔のことのように思えちゃうね。
いろんな思い出の詰まった宇品の道を、振り返るように走り抜ける。
いつもの電車はあっという間に比治山通りを抜け、終点、広島駅へ。
広島駅近辺も、数年前に比べると大きく変わったね。
新しいビルの窓ガラス映る姿に、今では見る影もなくなった旧南口に。
猿猴川の両岸に咲く桜は、ピンクの車体によく似合っていたと思う。
これから建設されるであろう駅前大橋線と、”新”広島駅と。
キミと一緒に見ることは叶いそうになさそうで、少し寂しいかな。
最後の広島駅を後にして、通いなれた比治山路を下る。
これから止まっていく一駅一駅が、キミにとっては最後の寄り道。
一足先に車庫に帰っていく3003号と本線上で最後のすれ違い。
「おつかれさま」 「お気をつけて」 そんな会話を交わすように。
79年組ならではの角ばったヘッドライトも、もう見かけることはなくなっちゃうんだろうな。
そして終着駅、広島港へ。
1963年に福岡で活躍を始め、時代の流れに翻弄され広島へ。
気づけば60年近く走り続けてきたキミも、ここがほんとの終着駅。
降車ドアを開けて、最後の乗客をおろして。
これが最後なんて思いたくはないけど、それでも残酷に出発チャイムが響く。
これから通る道は、もう二度と通ることのない道。
宇品の撮影地として少し有名になった古びた商店街も、この電車と一緒にさよなら。
市内線にやってきて早20年、キミは慣れ親しんだ景色に別れを告げていく。
思えば雨の日も雪の日も、ピンク色と二つ目ライトはどこか安心感があった。
特にキミは、いつもどんなときも走っている。そんな印象を感じていたな。
御幸橋を渡り、千田車庫への帰路もあと少し。
御幸橋から見た花火も、桜も、同じツリカケ仲間の3100形との並びも。
悲しいけど、ぜんぶぜんぶ過去のものに。
2021年2月22日。「いつもの電車」の最後の朝を。
まさかキミにさよならを告げる日が来るなんてね。
この時の僕にはまだ、信じられなかった。
あらしのあとに。
2020年9月某日。
台風による予告運休が始まってから6時間ほど経った頃。
江波方面から静まった軌道と死んだ電停を照らす1両の電車が。(ライトは点いていませんが...)
そうそうない台風明けの全線保安確認列車。”全線”なのでもちろん白島線にも。
白島線に入線する「試運転」幕の電車、1000形の営業前試運転以来かもしれないですね。
軌道の安全を確認しながら、白島線を後にして江波方面へ帰っていきました。
この確認列車が江波車庫に入庫した後、まもなく全線で電車の運行が再開されました。
各車庫からぞろぞろと電車が出発して、錆びついた線路にいつもの賑わいが。
昼過ぎからの全線運転に伴い、午前中に設定されている白島線への送り込み列車が運休のままに。
白島線八丁堀まで回送で運転されたのち、八丁堀から営業開始というかつての9号線の運転スタイルがとられました。
かつての9号線といえば八丁堀電停の路面乗降、数年ぶりの光景が繰り広げられました。たぶん1000形では初めてなんじゃないかな?
あの”広電電車”が全線運休を予告した台風。結局大事に至るようなものでなくてよかったです。電車の足音が聞こえない寂しい町はもう御免ですね...。
あらしのあとに。チンチン電車は今日も行く。
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※意図した文字化けです。お使いの端末は正常です。
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あらしのまえに。
2020年9月某日。
中国地方に大型の台風が接近するとのことで、広島電鉄が異例の「予告運休」を行いました。
始発電車より全列車の運転を見合わせる。
青い会社の方ではよく聞く話でしたが、まさか広電電車が止まるだなんて。
普段は海に近い広島港と宮島口に夜間留置が設定されているのですが、台風による高潮被害を免れるためにこのような日は全車が車庫へ撤収してゆきます。
電車の影が一切見えない広島港、昔見たスパイ映画の秘密基地のよう。
そのまま車を飛ばして荒手車庫へ。
宮島口方面の最終電車が下った後、終電が終わった案内と同時に5008号がホームへ。
宮島留置の車両を全車荒手車庫に収容することができないため、例外措置としてホーム上での夜間留置が行われます。
あんまり夜間のホームをジロジロしていると不審者が過ぎる(元から)ので...パパっと...。
1編成も止まっていない宮島留置線。
路面電車の設備とは思えないほど広大で立派です。もうすぐ見納めなのかもしれないけど。
かっこいいよね、連接車。 ( 愛知編 )
愛知編と銘打っていますが、別にシリーズ化するとかそういうのではないです。
ひとつ前の記事、名鉄旧600V線区探訪のついでに愛知県に眠る連接車2編成に会いに行ってきました。
①岡崎南公園にて
岡崎南公園には、かつて名鉄揖斐線などで活躍していた名鉄モ400形401号が保存されています。
この名鉄モ400形は、古くは鉄道が谷汲まで延伸開業されたときに美濃電気軌道が導入した「セミシ64形」に起源を有する車両です。
後年、導入当時は4軸単車だった車両を2両つなげて連接・ボギー化したというトンデモ電車だそうで。他所から貰った戦前の路面電車を連接化して60km/hでかっ飛ばさせていたどこかの会社に近いものを覚えますね。
改造して連接化した編成中間部。当時のトンデモ技術力が垣間見えます...。
この連接化改造により1両当たりの定員が10名も増えたそうで、また4軸単車時代よりも安定性が増して現場からは好かれていたようです。
しかしながら改造費が割高となること、同時期に他線区で余剰となった大型車がいたことから結果としてこの連接化改造は401号のみにとどまってしまいました。
しかし後年、岐阜市内線系統にはモ770形・モ800形という連接車が導入され、さらにその前には輸送力強化の名目で札幌市よりA830形 (モ870形) を購入しています。
歴史に「もし」を投げかけるのはいささか野暮なものかもしれませんが...。もっと連接化改造が進んでいたら。もっと魅力的な電車が生まれていて、輸送力にものを言わせて一大勢力になっていたら...。岐阜市内線の未来も、少し変わったものになっていたのかもしれませんね。
さらに同線区を走ることになるモ770形の設計思想に、この電車が少しだけ影響してるのかもと思うと...。
福井にまた行きたくなっちゃうな。
最終的にこの電車が線路を離れるきっかけとなったのは、瀬戸線に新型車を導入するにあたって玉突き転属で大型の電車が移ってきたことによります。その時瀬戸線からやってきた電車こそ、ひとつ前の記事で取り上げたモ750形に当たるんですよね。
別に大したことじゃないけど、少し探偵をしている気分。
保存車巡りはこういうところがやめられない。
②レトロでんしゃ館にて
名古屋市交通局日進工場に併設される形で「レトロでんしゃ館」とよばれる保存施設があります。
中には名古屋市電時代の路面電車や、黎明期の地下鉄車両が保存されていました。
その中でもひときわ目を引く(当社比)のがこの名古屋市交通局3000形3003号。
一見すると近代的な車両に見えますが、製造年は驚異の1944年。
戦時中の輸送力強化を目的とし、特別に資材が割り当てられ製造されていたようです。
この文面も...某島電鉄の某650形で聞いたことがありますね。木南車両らしい前面窓の割り方も、どこどなく似ているように思えてきます。
こちらの3000形は当初より連接構造で製造されているだけあって、しっかりとした作りをしているように思えました。
室内灯が点いていなくとも、大きな側窓から差し込む光で車内はとても明るかったのでしょうね。こんな電車が1940年代から名古屋の街を走っていたと思うと。
見てみたかったの一言に尽きます。いいなぁ...。
聞く話によると、落成当初はおでこにライトがついていたそうで。
そうするとますます650形に似た出で立ちをしていたのかな。
結局この3000形は1970年までに全車が運用を離脱。現存するのはこの3003号だけ。
3000形の製造後、名古屋市交通局はさらなる輸送力強化のため大量の2軸単車から部品をもぎ取って2700形を製造したようです。驚き。
計画の中では2700形は3連接化も視野にあったらしく、もし3連接車が落成していればそれはそれは壮観だったでしょうね..。
レトロでんしゃ館には3000形の他に1400形1421号、2000形2017号が保存されています。どちらも「名古屋市電」を象徴する車両で見ごたえある施設でした。
また近年になって倉庫代わりに使われていた1900形電車の修繕も行われているとのことで。名古屋の路面電車史をもう少し紐解いてみたくなりますね。
そういえば別の機会に名古屋市科学館を訪れていたのですが、ここでも電車を見かけていました。
都電、大阪市電とは異なりすでに全車が軌道を離れている名古屋の路面電車。
数少ない保存車から記録を辿り、繁栄していた頃の面影を。
P.S.
ちなみにこれらの保存車を巡っていたため谷汲到着が日没後になったのでした。
次は車をかっ飛ばさなくていい旅程を考えたい所ですね。余裕がある大人になりたい。
今回のお気持ち表明には以下のサイトさんにお世話になりました。よければ合わせて是非!
”Kurono”diver -fragment-
‐ Chrono : ギリシャ語で「時 (とき)」・「時間」を意味するクロノス (chronos) に由来する接頭語
diver : ダイバー,水に飛び込む [もぐる]人,潜水夫 -
夏のうんざりとした暑さから解放されつつあった9月、性懲りもなくTwitterの海を放浪としていると「(旧)谷汲駅夜間撮影会」の文字が。
GOTO、だし...。予定空けれる、し...。最近お出かけしてない ( これは嘘 ) 、し...。
2020.10.18
こんな機会でもないと行かないような気に襲われ、気が付けば旧谷汲駅へ。
辿りついたときには既に辺りは薄暗く、そしてその代わりに眩しいライトと人影と。
新調したくそ重レンズに四苦八苦しながら、赤い電車を撮らせて貰いました。
やっぱり現役時代に来たかったな。闇夜に浮かぶおでこライトがかっこいい。
結局、展示位置への引き下げまでお邪魔しました。
モーターカーでの推進とはいえ、現役時代を思うことができてよかったです。
2020.10.19
谷汲を後にし、翌日は名鉄旧600V線区の遺構巡りへ。
まずは岐阜駅前に保存されている513号に再会しに行きました。もう1年前なんですね。
↓ 陸送追っかけ、懐かしいです。
こういう野晒しにされている保存車両は腐食が進行する速度が早いので心配していたのですが、1年経っても雨だれすら感じられず手が入ってるんだなと。
保存に携わっている方々には頭が上がらないです。今度はライトアップされてる時に来たい。
続いて訪れたのは美濃町線の終点だった旧美濃駅。
旧谷汲駅が2001年の廃止であったのに対し、こちらは1999年の廃止区間。
2000年代初頭の600V線区が廃止になっていく様は、文面でしか残ってない今ですら寂しさを覚えます。広島から車で向かったのですが、道端に見える「電車が走ってたらしきスペース」に当時を偲ぶことができました。
旧美濃駅といえば、錚々たるこの顔ぶれですね。
モ510形とモ600形はもちろんのこと、奥に見える生首...生首...。
連接車大好きオタク(自称)としては、この子だけはカットモデルにしてほしくなかったな...。こうして残ってるだけ感謝しないとなのかもしれないけれど。
最後に、揖斐線と谷汲線の分岐駅であった黒野駅の跡地「黒野駅レールパーク」へ。
当時の2-3番線が跡地に残されています。合わせてこの時はちいさなモ510形もいました。
おそらく2番線が揖斐線、3番線が谷汲線に使用されていたんじゃないかな。と。
レールパークから少し西へ進んだところに、揖斐線と谷汲線の土手が綺麗に見える場所が。
こんなにくっきり残ってるなんて、この場に立つまで知らなかった。
自分は古い人間なので、やっぱり現地で見て聞いて触って。それでこそ価値があると思うんですよね。
今回こうして、美濃や谷汲を巡って、電車や遺構に触れて。
インターネットで検索すればすぐ出るようなことかもしれないけど、それでも立ち寄れたことに大きな意義を感じてしまいました。
廃線からすでに15年。徐々に...ではあるけど風化が進む岐阜より。
”遠ざかっていく 記憶の中で どんな言葉よりも
生きていた証と刻を 触れた指先から感じているから”
-fragment : 破片,断片-
名鉄旧600V線区。失われた鉄路の、記憶の破片を追って。
↓ 好きな曲ので是非。ほんとはサブスクのリンクでも貼れればいいんですけどね...。
ちなみに今回もいつものオタクと限界ドライヴでした。お疲れさまでした。
↓ よろしければ是非!